BOOK
「星の王子さま」と「誰が星の王子さまを殺したのか」
「星の王子さま」
サン=テグジュペリ 出版年 1943年
「誰が星の王子さまを殺したのか~モラル・ハラスメントの罠」
安富 歩 出版年 2014年
☆☆☆
「星の王子さま」というお話は、有名すぎるほど有名であるから、今更説明するまでもないと思われるが、実際に読んだことはない、という人も少なからずいると思うので少し解説する。
砂漠に不時着したパイロットの「僕」は、小さな男の子と出会う。その男の子は小さな自分の星を出て、いくつもの星をめぐってから7番目の星・地球にたどり着いた王子さまだった。「僕」は王子さまの話を聞き続け、やがて王子さまが1年前に落ちた地点に戻るために何千マイルも歩いてきたのだと知る。そして落ちてから1年後の同じ日、同じ地点で王子さまは蛇に自分を噛ませて、砂の上に倒れる。
可愛らしい挿絵はサン=テグジュペリ本人が描いたもので、この絵の方がとても有名で、マグカップになったり、筆箱になったりして、子どもの頃から身近にあり、とても親しみがあった。ところがお話となると・・・、ほとんど記憶がないというか、読んだものの、あまり理解できなかった。
まず王子さまはほんの小さな子どもで、想像の設定と大きく違った。お話には多くの奇妙な人物が出てくるものの、お姫様も怪獣も出てこない。1本の生意気な口をきくバラが出てくるだけだ。そして危険なバオバブの木の芽を一所懸命摘み取るという仕事を王子さまは小さいのに担っていた。
これは子どものためのお話ではなくて、明らかに大人のためのお話であった。
王子さまの星に、ある日どこからかやって来て咲いたバラは、何を示していたのか。おそらく女性を、サン=テグジュペリの妻であったコンスエロなのだろうか?
はじめてバラに出会った王子さまは感嘆の声をあげる。
「きみはなんて美しいんだろう!」
するとバラは「でしょう?」ととりすまして答え、そろそろ朝ごはんの時間だからよろしくね、と王子さまに命令するのである。
そこから王子さまは自意識過剰で気難しいバラに支配され、苦しみ、そして星を出ていく決心をするのである。
これが何を意味するのか。
子どもが読めば、ただ意地悪なバラが出てきて嫌だな、と思うだけだが、大人になってから読むと、そこには心がぎゅっとするような記憶、どこかで味わったことがある嫌な記憶が思い起されるのだ。
このバラとのやり取り、そして王子さまが旅を続けながら感じる違和感、パイロットの「僕」との対話を通じて時々見せる怒り・・・それらは柔らかい物語の影に隠れているが実は、人間の大人の煩わしいやり取りを表しているに過ぎない。これはいわゆる精神的虐待、モラルハラスメントの縮図である。
この点に注目して書かれたのが「誰が星の王子さまを殺したのか」である。
この本の最重要点は、「星の王子さま」の最も重要なメッセージ、「いちばんたいせつななことは、目に見えない」ということが、誤って解釈されることの危険性を指摘していることである。
―いちばんたいせつなことは、目に見えない。
そう言われると、ああ、大人は心が汚く曇っているから、心の目が見えなくて、本当のことが見えなくなっているなぁ、などと思ってしまう。
しかし安富氏は目に見えることにも真実はたくさんあり、特にこの物語が暗に意味している「虐待」という観点で言えば、「いちばんたいせつなことは、目に見えない」という解釈はとても危険だとしている。
すなわち、虐待されている者が、虐待するものの本質は「私への愛なのだ」と解釈したとすれば、「目に見えないものが真実」という思い込みはさらに危険なものに発展していき、二度とその虐待から逃れられなくなってしまう、と指摘しているのだ。
それは少し飛躍しすぎでは、と思うかもしれない。
しかし周りにいるDV被害者、家庭内でのモラハラ、金品を貢がせるだけでおよそ誠実さの欠片もない恋人・・・
被害者たちはなぜそのような悲惨な状況を甘んじて受け入れているのだろうか?そこには「本当は彼(彼女)は私の事を愛しているのだ。大切なことは目には見えない・・・」そう思えばこそ、この悲惨な状況を受け入れてしまうのである。
「星の王子さま」の作者、サン=テグジュペリが虐待を意味して書いたかどうか、というのは不明である。しかし、サン=テグジュペリ研究の重要な文献の一つ、「X将軍への手紙」を読むと、社会の抑圧や、大衆が本当は自由ではなく、手足をもがれた状態で自由を与えられいる事の恐ろしさを訴えており、彼が意図的ではないが、「星の王子さま」の中に理不尽な抑圧への抵抗を描いたとしても不思議ではない。そしてその意図せずしてできあがった物語が、読み手にとって深い意味を持つところに、この物語が70年以上も愛され続けている理由が隠されているのだと思う。
文責:Y
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