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トルストイ―「芸術とはなにか」

☆☆☆

かつてまだ深夜テレビで映画などが放映されていた時代(今でもたまにやってるけど)、巨匠ルイ・マル監督の「プリティ・ベビー」という映画が放映されたことがあった。記憶は定かではないが、1度にとどまらず、何度か放映されていたと思う。

内容は1910年代のアメリカ南部、娼館を舞台に12歳の少女ヴァイオレットが、娼婦としてデビューし、写真家と恋に落ち、親が恋しくなって母の元に帰る、というなかなか今の時代では映像化できそうにない内容であった。なかでも芸術とはいえ実際に12歳のブルック・シールズ(ヒロイン役)がフル・ヌードで登場し、おじさん達にしなだれかかるサマは、美しいというよりも痛々しい印象であった。 もちろん、ルイ・マルはその痛々しさ、商品として扱われる女性、子どもが子どもらしくある権利、などを主張するために作品を作ったのだろう。だがしかし、今となってはテレビで放映されることはおろか、DVDの販売に対しても厳しく規制されるべきだ、という意見まで上がっている。

またこの映画が上映された翌年の1979年にはロマン・ポランスキー監督の「テス」が公開され、当時15歳だったナスターシャ・キンスキー(ヒロイン役)とロマン・ポランスキー監督(当時46歳)の熱愛が話題となった。

実はポランスキーは1977年にアメリカで児童強姦罪(13歳の少女のレイプ)で起訴され、逃亡の末、フランスに渡ってこの「テス」を撮影した。したがって舞台はイギリスにもかかわらず、全てフランスの風景であった。現在、ロマン・ポランスキー監督は米アカデミー賞を主催する映画芸術科学アカデミーから追放されている。

そのフランスでは1930年代、バルテュスが「夢見るテレーズ」を描き、ピカソをもってして天才と言わしめ、34歳年下の美しい日本人女性と結婚し、大変評価されていた。

夢見るテレーズ

が、近年、メトロポリタン美術館においてこの「夢見るテレーズ」を撤去する請願書と署名が提出された。理由は「幼い女の子が、セックスを暗示するポーズを取るこの絵にショックを受けた。そしてメトロポリタンのような有名美術館が、このような絵を誇らしげに掲げていることに不安を覚えたため」だそうである。

1980年代に活躍し、エイズのため早世した写真家ロバート・メープルソープにおいては、彼の死後刊行された写真集を巡って、日本では裁判沙汰となった。アメリカで刊行されたメイプルソープの写真集の日本語版を作成した出版社社長が、アメリカから日本に帰国した際に、その写真集を持ち込もうとして、税関から輸入禁制品該当の通知を受けた。理由は「写真集の中に被写体の男性が性器を直接露出した状態の写真が掲載されていたことから『わいせつ図画』に当たるため」ということであった。

Orcihd Robert Mapplethorpe

出版社社長はこの判断を不服として国を提訴。「芸術か猥褻か」で争うことになった。この裁判は1994年に始まり、2008年の最高裁判決まで持ち込まれた。しかし、2008年を待つまでも無く、メイプルソープの写真集は高い芸術性を評価され、日本でもばんばん写真展などが開催され、国は敗訴している。

と、この流れを見ていると、20世紀から21世紀にかけて、芸術の基準は甚だしく変化しているように思われる。特に近年、LGBT、#ME TOO運動を通じて、かつては全く評価されなかったものが芸術的な価値を持ち、芸術の華と謳われたものが、今では焼き討ちの対象になっているといった具合である。

ここでまたしつこいようだが、思い出されるのがウッディ・アレンとミア・ファローの泥沼裁判劇だ。事の発端は1992年、当時53歳だったウッディ・アレンが、ミア・ファローの養女スン・イー(当時22歳)と性的な関係を持っていたことが発覚したことによる(実際にはスン・イーが高校生の時から)。その後、ウッディ・アレンは同じくミア・ファローの養女ディラン(当時7歳)に対する性的虐待で訴えられたが裁判に至ることはなく、親権争いではミア・ファローに負けている。一番の肝は、ウッディ・アレンがミア・ファローの訴えを「嫉妬に狂った女のでっちあげ」と大手マスコミに吹聴して回り、マスコミもそれをそのまま垂れ流したという事実であった。しかし2016年、ウッディ・アレンの実の息子でニューズウィークの記者であったローナン・ファローによって、再びこの性的虐待の告発を受ける事になった。このローナンと言う人は天才として名高く、12歳でハーバードに入ったり、オックスフォード大の奨学生になったり、弁護士の資格まで持っていたりと、アメリカでは名の知れた人で、#ME TOO運動の仕掛人でもある。この辺の話は「ミア・ファローvsウッディ・アレン」というドラマにまでなっているので、お時間ある方は見てみてください。笑えるくらいウッディ・アレンが「くそ野郎」として描かれているので。

真実はハッキリ言って分からないが、この2016年の告発以降、ウッディ・アレンの評価が徐々に落ちてきたことは確かである。ナタリー・ポートマンを始めとした今の俳優たちが彼に「NO」を突きつけ始めたのである。

1990年代、2000年代はまだウッディ・アレンと言えば天才であり、ニューヨーカーの代表であり、セレブリティであった。しかし一方で彼の作品が面白くなくなっていった時期だと思うのは私だけだろうか。

アニー・ホール

1970年代のウッディ・アレンの作品は文句なく面白かったと思うし、「アニー・ホール」は今でも私の好きな映画トップ10の中に入っている。

しかし、「ブロードウェイと銃弾」(1995年)以降、「ギター弾きの恋」(1999年)を除いて、どうも恋愛ドラマに傾き過ぎて好きになれなかった。

一方でスキャンダルはなんとなく封印され、相変わらず名だたる映画祭では作品が上映され、高く評価され続けていたのは少し疑問であった。そんなに面白くないよ、と。

現在ウッディ・アレンはアメリカ国内で映画を作ることができない状態となっている。Amazonが契約し放映する予定だった映画は延期、そして契約解消となった(この「A Rainy Day in New York」は米国以外では上映されている)。

このウッディ・アレンへの180度違う評価をどう受け止めればよいのだろうか?彼の過去の作品まで批判の対象になるのだろうか?これまで目を瞑って手放しにウッディ・アレンを高評価していた評論家たちはどこへ行ったのか?

☆☆☆

それにしてもまず、芸術とはなんなのか?

ここに現文化庁長官で自身は作曲家・日本音楽著作権協会会長(JASRAC)も務められたことがある戸倉俊一氏が、2021年5月19日付けの読売新聞の取材に答えているので引用したい。

―コロナ禍が続き、現場からは「何かをすること」への補助だけでなく、活動する体力すらない人々への損失補填、給付金などを求める声も強いが?

戸倉「平時にあまり稼げていない人が給付金で突然稼げるのはまずい。文化芸術は、やはり実力が基本。実力ある人たちが困窮していることが問題であり、フェアな状況を作ってあげたいと思う。」

―自身も作曲家だが、コロナ禍での文化・芸術の持つ意味は?

戸倉「文化・芸術を人間が生きていく中で『不要不急』だと考えている人がいたら、その考えを)やめるべきだ。―略― 文化芸術が不要で、先に経済を立て直すとかは、絶対考えるべきではない。でも、実感としてそれを行政に分かってもらうのは難しい。だから一生懸命説得するのが、僕の立場かなと思っている。」

このインタビューで分かることは、戸倉氏にとって守るべき芸術家とは、充分稼げる人のことであり、お金を稼げず遊びでやっているような人は芸術家ではない、ということである。しかし一方で芸術は「不要不急」なものではない、とも断言しておられる。

行政として、補償や、支援等、なんらかの明確な基準を求められる立場から考えると、芸術の定義付けというのは結局「プロとして稼いでいるか、いないか」になってしまうのかもしれない。

もやもやした気持ちを抱えながら、文化庁のホームページを開いてみた。

https://www.bunka.go.jp/

ちょっと受け入れ難いコンテンツのダサさも幅広い層へのアプローチなのか。

文化芸術推進基本計画とやらを開ける。

「文化芸術立国中期プラン」という項目が目に入った。そんな計画あったのね。

概要版(https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunka_gyosei/hoshin/pdf/plan_gaiyo_1.pdf

を開くと、なんだか楽天のショップページみたい。

その下には詳しい資料があるみたいなのでそちらを開く。

https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunka_gyosei/hoshin/pdf/plan_2.pdf

2014年に作成されたもので、もう7年前のものだ。

下村博文さんが序文を書いている。

前年に東京オリンピック開催が決定し、「2020年」を五輪開催の年であると共に新しい日本の飛躍・創造の年にしたいと抱負を語っておられる。「復興五輪」「クール・ジャパン」「日本を世界文化交流のハブ」その他もろもろ大仰な文言が並ぶ。全てがオリンピックを中心に組み立てられている感じだ。

今となっては(2021年現在)、全てが虚しく聞こえてしまう。

しかしケッサクだったのは参考資料に添付されていた「文化芸術立国の実現のための懇話会委員」であった。メンバー・トップは作詞家の秋元康氏、楽天の三木谷浩史氏、シャネルの社長まで名を連ねている。もちろん文化芸術界で活躍されている方も名を連ねているのだが、次世代のアーティストや研究者はいない。もしかしたら声をかけても誰も参加しなかったのかもしれないが。

☆☆☆

「芸術とはなにか」は、レフ・トルストイがおよそ7年という年月をかけて書き上げた人生哲学・評論文である。1889年に書き始め、1897年に完成したということだから、69歳になっていたことになる。

40代で「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」を書き上げ、描写の天才をうたわれたトルストイであったが、50代になると原始キリスト教に深く傾倒し、自ら飢餓救済活動に取り組み、質素で素朴な生活を送るようになった。その彼が、自身の作品も含めて批判の対象にしたのが「芸術とはなにか」だ。

芸術の根源は「美」である、というのが18世紀から今日までさんざん議論されつくしてきた美学芸術論の根底である。

では「美」とはなんぞや?

これが実にやっかいな議題で、「美」というのはそれ自体言葉で定義されたり、表現しうるものではない。そして自我の芽生えと同じく、相対的なアプローチでしかその存在を認めることができない。人それぞれ「美」の価値基準は違うのだ。

そもそも「美」という言葉は見た目の美しさ、自然の風景や建築物、人間の肉体に対して使われる表現であった。古代ギリシャ文明の彫刻や建造物、神話や詩歌は、ヨーロッパの「美」の基準であり、あらゆる時代に影響を与えた。しかし古代ギリシャ文明において「美」を表現したり、親しんだりするには「奴隷」という存在が無くては成り立たないことだった。そこに現代流の倫理感は存在しなかった。

やがて時を経て、キリスト教的価値観が広がると、「美」は神の名の元に神聖であるべき、という観念が広がっていく。旧約聖書の「創生期」において、エデンの園で暮らすアダムとイヴが禁断の果実を食べて知恵を身に付けたように、「美」に倫理観が備わったのである。そこで、見た目だけではなく、音楽や思想にまで「美」という表現をあてはめるようになっていく。

ところが中世以降、ヨーロッパ上流階級の間で信仰が失われると、「快楽」だけに焦点が当てられ、芸術の持つ意味を失わせてしまった、というのがトルストイの考察である。詳しくは本を読んでいただきたいが、ヨーロッパでは大航海時代を経て、ルネサンスの「ヒューマニズム運動」などが起こり、やたらと「快楽」をテーマにした芸術が多くなったイメージがある。そこには古代ギリシャ芸術への憧憬という側面とキリスト教倫理観への反抗みたいなものも感じられる。

では本来の芸術の持つ意味とはなんだったのか?

芸術とは人間の一つの生活手段―人間相互の交流手段である―とトルストイは言う。つまり「コミュニケーション」のことだ。

この理論は腑に落ちすぎて、何度も膝を叩きたくなる。

旧石器時代のクロマニョン人が描いたとされる「ラスコーの壁画」。躍動感溢れる雄牛の姿が壁面に描かれているのを見た時、誰もがこの絵を描いた人と同じように「自然への畏怖」を感じたのではないだろうか。

ラスコーの壁画

このように時代も、言語も、あるいは種族も乗り越えて意志を交流させることができるのは、芸術の他には無い、と思われる。

一方でこのような感情の伝染性を芸術と捉えるなら、「良い感情を引き起こす芸術」と「悪い感情を引き起こす芸術」があることも認めなければならないだろう。近年やり玉に挙げられる「残酷な映画」「残酷なゲーム」「殺人を惹起させる詩歌」。これらはしばしば芸術ではない、と結論付けられ、禁止の対象になってきた。

しかしこのようなごった煮の論理で禁止すれば、ますます偏執的に追い求めるようになるというのも事実だろう。

したがって、「芸術」であるかどうか、と「倫理的に間違っているかどうか」の議論は別に行う必要があるように思われる。ウッディ・アレンへの評価も批判も、本来は分けるべきなのだろう。しかしそれができないのは、我々が持つ感情の問題なのだ。

「美」と「善」は一致しないどころか、相反するものである、とトルストイは結論付けている。そのうえで、より良い「人間」となるために「芸術」は役立てられなければならない、というのが彼の哲学であり、信条であった。

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「芸術」=「コミュニケーション」

理論を採用するならば、前段で取り上げた文化庁長官の戸倉氏が言う「芸術は不要不急ではない」という言葉はその通りであり、今こそ一番必要なことだと思う。したがって、言葉だけではなくて、実際にもっと広めて欲しいと思うのと、私が注目しているのはオリンピックの開会式。不要不急ではない文化的祭典というからには、どんな芸術性を示してくれるのですかね・・・ついこないだはある女性タレントに豚のコスチュームを着せて登場させるなんていう演出案がありましたね・・・何度も言いますが不要不急ではない文化的祭典ですよ・・・またマリオが登場するのですか?嵐(日本のアイドルグループ)再結成の噂も流れてくるのですが・・・

この国の文化芸術が「強欲」のカモフラージュにされないことを祈るばかりである。

文責:矢向由樹子

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