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冥丁ライブ・コンサート in 旧グッゲンハイム邸
大変遅くなりましたが、8月22日に開催された、冥丁ライブ・コンサート「蜻蛉」 in 旧グッゲンハイム邸にお越しくださった皆様、ありがとうございました。また、たくさんの方々にサポートしていただき、本当にありがとうございました。
晩夏という響きには、どこか悲しいものがあります。
お盆を過ぎたら海には入れないし、長かった夏休みも終わってしまう。永遠に続くかと思われるような日も段々と短くなって、暮れるのも早い。いつまでも遊んでいたかったのに、「早く帰っておいで」と母の声が聞こえる。
線香花火がじりじりと燃え尽きるように、夏の終わりは儚いものです。
蜻蛉(かげろう)が成虫になってから生きるのはわずか2~3日で、水中で過ごす幼虫期が半年から1年であるのに比べて、成虫が生きる期間はあまりにも短い。羽が生えて、飛び回る期間は食べることもせず、ただ交尾をして、産卵すると死んでしまう。
平安時代に書かれた「蜻蛉日記」は、この儚い生き物になぞらえて名付けられたものでした。
晩夏と聞いて、ふとこの羽虫の事を思い浮かべました。半透明のこの羽虫が、ゆらゆらと燃える炎に群がる姿を。
冥丁のグッゲンハイム邸でのライブ・コンサートは、そのような晩夏のイメージにぴたりとはまる、美しい世界でした。
中心地の三宮から少し西へ離れた塩屋という土地は、前方は海、後ろは小高い山という立地。電車に揺られて車窓から見える海を眺めながら、喧騒を離れた美しい光景を堪能できます。
開場は夕方の5時。
徐々に日が沈み、夏の日ざしが弱まった時、100年以上前に建てられた洋館が、本当の姿を現しました。庭園に灯された電球に照らされ、コロニアルスタイルの白い建物が、時の洗礼を受けて美しく佇んでいる姿に思わず息を飲む…
時代も場所も、どこか異次元の世界に迷い込んだような、そんな瞬間でした。
100年前、この館で小さなピアノ・コンサートが開かれていたであろうことは、想像に難くありません。親しい隣人を招いて、美しい調度品に囲まれ、恐らく贅沢な時間を過ごしていたでしょう。
冥丁がしばしばテーマに掲げる「失日本」は、このような光景ではなく、恐らく第二次大戦後の日本の復興に伴う近代化、都市化に根ざしたものと思われます。
1868年の明治維新以降、日本の近代化はすなわち西洋化でした。それは産業革命を伴う急速な変化ではありましたが、江戸時代から続く風習や街並みをすぐさま一変させるようなものではありませんでした。
しかし、国民国家という概念が生まれ、徐々に国家として均一化が進み始めると、昔の風習や地域性が失われていきました。そして第二次大戦を経て、多くの都市が焼け野原となった日本は、再生とともに利便性を追求し、戦前の日本とは全く異なる景色を作り出す事になりました。
それでも、家父長制と言う枠組みは残り、精神的な鎖は解き放たれないまま、哀愁に満ちた文化が生まれました。
それが日本の原風景として、現代の私たちの心に微かに残っているのではないでしょうか。私たちがかつて美しいと思った風景、価値観、美意識と呼ばれる物の多くは、戦前に起因しながらも、新たに作り出された独特の文化のようにも思えます。
冥丁が掲げる「失日本」には、素朴な日本の原風景という面と、この忌まわしくも哀愁に満ちた日本の文化という二つの側面があるのではないでしょうか。
☆☆☆

その日は開場からDJ Marcoが広間でドリンクを楽しむ人々の気分を盛り上げていました。星を散りばめたような印象的な導入から、ダンス・ミュージックまで、幅広い選曲でした。前方に座席をしつらえたため、音を堪能したい人たちは座席につき、その場を楽しみたい人たちは暮れゆく庭を散策したり、芝生に寝転んだりして思い思いに過ごしました。
7時、Krikor Kouchianのライブ・パフォーマンス。
おりんの音が鳴り響き、静かにシンセサイザーが音を紡いでいく。とても静かに。そしてノイズ・ノイズ・ノイズ。ループを多用しながら、少しずつ音がずれて、不協和音を生み出す。

Krikorの音はとても素晴らしい。
昔の彼は、どちらかというとクラブ向きのビート強めの印象でしたが、今回の来日中に三度彼のライブ・パフォーマンスを見て感じた印象は、ダークさとアンビエントの要素が強くなって、より即興音楽の良さが際立ったことでした。
そして今回のパフォーマンスが文句なく最高だと思いました。瀟洒な洋館に鳴り響くインダストリアルなダーク・アンビエントなんて、そうそう聴けるものではないですから。
Krikor Kouchianはパリ生まれで、90年代からクラブ・シーンで活躍してきました。彼に聞くと「当時は機材がとても高くて、始める人は少なかった」のだとか。エンジニアを目指して大学に進んだけれど、音楽に魅せられて方向転換。理論的に音を積み上げられる人、という印象でした。
去り際、「次はどこの国に行くの?」との問いに、彼はグレーの瞳を天に向けて少し考えた後、「多分ヨーロッパのどこかかな。まだ決めてないんだ」と。
ノマド・ワーカーらしい返答に納得しながら、こうして音楽を生業にするアーティストが沢山いることを実感しました。
冥丁のパフォーマンスは、彼の語りから始まりました。朴訥とした話しぶりで、決して上手くはないけれど、誠実な人柄がにじみ出ていました。
オープニングは「漣」。そしてアルバム「小町」の楽曲へと移っていきました。
2026年に発売されたアルバム「瑪瑙」は、彼が広島時代に発表した「古風」三部作をモチーフに作り直された楽曲が収められています。サンプリングと位相を乱した音作りに加え、万人に受け入れられやすい音作りも目指していた印象でした。そしてこのアルバムを清水寺で奉納演奏したことは話題にもなり、記憶に新しいと思います。
今回の公演で「小町」を中心に演奏を組み立てると聞いて、原点回帰なのか、あるいはこのグッゲンハイム邸の雰囲気に合わせたものなのか…と思いを巡らせました。
しかし実際は、彼の中で新しい「音」の探索が始まっていて、従来の彼の「音」とは異なるものでした。
以下は「漣」以降のセットリストです。
「池」
即興演奏
「提灯」
即興演奏
「波」
「円相」
即興演奏
「宇多野」
「新花魁Ⅱ」
初めは、「漣」の静けさから、徐々にうねるような音を増幅させた演奏が続き、即興音楽ではドローンを思わせるような、ノイズの広がりがスモークのように足元を埋め尽くし、聴衆の頭上を音が立体的に飛んでくる感覚を覚えました。
「小町」でありながら、全く違う世界観になっており、端的に言って、圧倒的な没入感でした。

冥丁が、今後、どのような活躍を見せるのか、私にははかり知ることができませんが、少なくとも、彼が現在日本のエレクトロニック・ミュージック・シーンにおいて、異彩を放つ孤高の存在であり続けようとしているのは間違いないようです。それはとても孤独で、音という小石を一つ一つ積み上げるような作業であると思われますが、彼のその姿勢が、つまり、全身全霊で音に向き合うその姿勢が、多くの人の心に響き、また共感を得ているのだと確信しています。
晩夏の夜に羽ばたく蜻蛉
ゆらゆらと燃ゆる灯(あかり)に誘われて
その透明の翅(はね)を炎に透かす時
永遠の命を闇に刻む
一瞬にして燃え尽きるその躯(むくろ)は
儚きものの
あはれなり
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