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THE PARADOX OF SOUND MAKING

分岐点

この記事を読んでくださる方の中には、ある程度音楽に詳しく、音楽の仕事に就かれていたり、プロとして活躍されている方もいらっしゃるのではないかと推測している。したがって早く本題に入ってくれよ、と思われている方も多いと思うのだが、その期待を裏切って今回のキーワードは「震災」。

過去50年、その間に2度も巨大地震に遭遇するというのは、ヨーロッパに住んでいる人にとっては信じられないことなのではないだろうか。ヨーロッパに限らず、震度3の地震すら経験したことのない国の人もいるかもしれない。

しかしここ日本においては、自然災害と共に生活があるといっても過言ではない。噴火、台風、地震、豪雨、大雪…毎年なんらかの災害にみまわれてきた。その中でも、大きな傷跡を残したのが、1995年の阪神淡路大震災と2011年の東北地方太平洋沖地震だろう。

このインタビューを行う以前、筆者はKabamix氏のこれまでの経歴をさらりと聞く場面があり、その時に印象に残っていたのが二つの震災の時の話であった。運命の転換期、ターニング・ポイント、それらは誰の人生にも必ずあるのだが、kabamix氏にとっては細野晴臣氏との接点がこの震災と重なっていた、ということが印象的だったのだ。そこで少し掘り下げてその時の事を伺ってみることにした。

―阪神淡路大震災の時はどちらにいらしたのですか?

Kabamix:(以下K)枚方の実家にいました。5時46分、もちろん寝ていたのですが、衝撃で起きて、ベッドに座っていたらベッドが回転し始めた。そう感じただけかもしれないけれど、とにかく家が崩れるかと思いました。しばらくして収まって、テレビをつけたら神戸の方が震源だということを知って…えらいことにななったな、と。でも、信じられないかもしれませんが、その後は車で仕事場まで行って、仕事していましたね…大阪は通常通りではないけれど、動いていましたから。

―西宮に住んでいた身としては信じられないことですが・・・

K:ホントに。後から被害がどんどん明るみに出たという感じでしたね。

震災から半年ほど経ったころ、震災復興チャリティ・イベントの話が入ってきました。11月初めの連休を利用して、六甲アイランドでチャリティ・イベントをするというものでした。それが横尾忠則氏と細野晴臣氏が企画した「ART POWER展」でした。神戸ファッションマートで5日間開催された復興支援イベントで、忌野清志郎さん、高野寛さんなど、多くのアーティストが集いました。

僕はそのイベント全体の音響の仕事をすることになったんです。打ち合わせのために「風の楽団」の岡野弘幹氏と神戸のホテルに向かったのですが、ロビーに現れたのは細野さんお一人だったんですよね。てっきり取り巻きの人に囲まれて、打ち合わせもそういう人たちとするものだとばかり思っていたものですから、驚いてしまって・・・その頃細野さんはソロで活動されていて、「環太平洋モンゴロイドユニットwith 細野晴臣」というユニット名で活動されていた時期でした。活発に活動されているというよりは、内面を深く掘り下げる方面に集中されている時期だったと思います。

直接お話したのはその時が初めてで、僕にとっては貴重な体験でした。

―おいくつの時ですか?

K:95年、28歳の時でした。

―20代ですかー。緊張されたのでは?

K:もちろん緊張はしていたと思いますが、必死だった方が強くて、あまりそのあたりのことは記憶していないです。

―その「Art Power」以降も細野さんのイベントには参加されたのですか?

K:その後、三重県の伊勢神宮近くにある猿田彦神社で毎年行われた「あらはれ」という野外イベント、明治神宮のイベントにも参加させていただきました。また大阪で行われたエレクトロニカのイベントでSKETCH SHOW(YMOの高橋幸宏氏を中心としたユニット)が出演されて、そこにも声をかけていただき、その後のSKETCH SHOWのツアーにも同行しました。後に坂本龍一氏も加わったHuman Audio Spongeのライブにもエンジニアとして参加させていただきました。

―それってYMOとは違うのですか。

K:まぁ、メンバーは一緒なんですけど。音楽的にはSKETCH SHOW の延長線上だったと思います。2004年に東京で行われたSonar soundにHuman Audio Spongeが出演された時は、細野さん、高橋さん、坂本さんの3人が和気あいあいとされているのを見て、ちょっと感動したり。

―イチ・ファンの目線になってますねw

K:仕事ではイチ・ファンではいられませんでしたけれど(泣)。

―コンスタントにお仕事をこなされていた印象なのですが、再び細野さんと深く関わるきっかけとなった、2011年あたりの事についてお聞かせください。

K:2011年の3月11日は仙台にいました。LIVEのPAとして、地下のライブハウスでその日のセッティングをしていました。そうしたら、物凄い揺れがやってきたんですね。で、地下だし、電球がたくさんぶら下がっていて、それが左右に振り子のようにぶんぶん揺れて、暗い部屋の中で、ちょっとしたホラー映画の1場面みたいでした。場所は仙台の中心部で、地上に上がってみても倒壊した建物などはありませんでした。公園に避難したものの、あの日は雪が降っていて本当に寒くて、バンドのメンバーが泊まっていたホテルに避難しました。そこから大阪に帰るまでが大変で、帰るために3日を要しました。仙台からは飛行機に乗れず、山形へ向かっていたのですが、その向かうバスの中で原発が爆発したことを知りました。

―恐ろしい体験ですね・・・。

K:その後原発事故の影響で、東京のアーティストたちが移住し始めて・・・。「くるり」も移住というか京都(もともと京都出身)に拠点を移すことになって、関西で制作できる環境を探していました。岸田さん(ボーカル)が細野さんにその事を相談して、細野さんが僕を紹介してくれて。その流れで京都でレコーディングが行われた際、僕も参加することになりました。そしてそこでゲスト演奏された細野さんにも再会することができました。

―2度の震災がきっかけとなって、細野さんのサウンドを任せていただくようになった、という感じですね。巡り合わせというか、不思議なものを感じます。

K:2011年以降、細野さんは関西でツアーを行われ、神戸の横尾忠則美術館でも2回LIVEを行いました。以後、レコーディング、ツアー(イギリス・アメリカ公演も含む)などに参加して、今に至るという感じです。

☆☆☆

冒頭で書いた通り、人生には重要なターニング・ポイントが必ずあって、知らず知らずのうちに我々は様々な選択をしている。自分で招いた事態の時もあれば、震災のように抗うことのできない事態もある。

Kabamix氏は、震災を通して細野氏と接点を持つ機会を得られたということだが、細野氏自身、震災という社会や人々を不安に陥れるような事態に対して、常に「芸術」の力でもって人々に「癒し」や「希望」を与える活動をされてきた。そしてその「芸術」の力を信じる姿は、「自分には何ができるか」ということを我々に問いかけているような気がする。

その活動に携われたKabamix氏は一言で言えば「ラッキー」だったかもしれないが、それを理解し、応えられたからこそ、次へのステップに進めたのだろう。

全ては人の力であり、アーティストもそれを支える技術者にも、高い人間力が要求される。これはどの分野のスペシャリストにも共通することなのだ。

次回からはサウンドメイキングの初級・技術編でインタビューしていきたいと思います!

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