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匂いの記憶

人の名前や物事の名称はほとんど一瞬で忘れ去られるのに、匂いだけは記憶に染みついて離れない。

もともと感覚で生きている人間なので、すぐ匂いを嗅ぐし、敏感だ。

例えば香水ならいざ知らず、サプリメントを飲んでいる人が、ほのかに漂わすケミカル臭。これはもう思い込みの領域かもしれないけれど、その人がサプリメントを止めるとなんとなく臭わなくなった(気がする)。

自分の匂い。これは自分ではなかなか感じることができないので困る。ふと感じることはあっても、一瞬のうちに消え失せてしまう。でも、病気だったり、精神状態がよくなかったりするとやはり臭い気がする。

少し前に「ある人殺しの物語―香水」という小説があって、主人公は生まれながら全く自分の匂いが無いという、奇妙な性質の人間だった。パリの市場のごみ溜めの中で生まれ、教会に預けられたものの、乳母として雇われた女が「この赤ん坊は匂いが無い」と言って気味悪がって突き返すというエピソードがあった。

パフューム~ある人殺しの物語~

確かに赤ちゃんには独特の甘い匂いがあって、その体臭が母性を呼びさますような所がある。

無臭の赤ちゃんというのは気味悪いモノなのかもしれない。その後成長した主人公は自分が無臭であることを悩み、天性の嗅覚を使って、この世でたった一つの神のような匂いを作る、という壮大な野望を抱く。そして次々と美しい女を殺して、匂いを絞り取っていくという奇行に走るわけだが…、この動機となったのが最初に殺した少女の匂い、これをずっと手元に置いておきたいという匂いの記憶だった。

匂いの記憶。

最初はやはり母親の匂いとか、家の匂いとかになるのだろうか。

住んでいる場所によって空気に混じる匂いの性質も違ってくる。排気ガスの臭いから、山の中の植物の匂い、動物の臭い、畑の肥料の臭い、家の換気扇から漂ってくるにんにくを炒めて肉を焼く匂い…こんなにも雑多な匂いに囲まれて生きているのに、苦しくならないのは、嗅覚がもっとも鈍化しやすく、慣れやすいからのようだ。

とはいえ、嗅覚は人にとって最もプリミティブな動機と言えるかもしれない。

私の場合、苦手な人は匂いで分かる。つけている香水を含めて、なんとなく「私とはルーツが違うな」とかなんとか。

逆に、全くなんでもない人が、重要な人としてマークされることもある。

ある職場でのこと。PC作業を教えてもらう際、ある女性に大変接近する場面があった。彼女が前かがみになって私のキーボードを叩いた時、否が応でも彼女の体臭を嗅ぐことになったのだが、その匂いがあまりにも自分の好みに合致していたので驚いてしまった。

基本は髪の匂い。シャンプー、オーデコロン、そしてその奥から体臭というべき動物臭、香料で言うならムスクとかそういうことか。若々しいフローラルとウッディの匂いが甘すぎなくてすごくいい・・・と、一人陶酔していたのだが、実をいうと彼女にはほとんど全く興味がなかった。どちらかというと見た目も地味だし、スタイルも憧れるようなモデル体型などではない。が、匂いがいい、すごくイイ。

というわけで、その日以来、なんとなく彼女をチラチラ見たり、話してみたり(話すととても感じの良い人だった)するようになった。

だからといって、別になにがあるというわけでもないが、日常の中でそういうことはたまにあるのではないだろうか。

これが男性の匂いとなるとまた趣きが変わってきて、もう匂いがダメなら絶対ダメ!となるのだけれど、そのあたりを説明するのはとても難しく、日本の男性はあまり香水を使う人がいないので、だいたい柔軟剤とか、汗の臭いとか、家のタンスの臭いをまとっている感じ。たまに香水をつけている人がいても、安い匂いがする。実を言うと、メンズの香水ならこれ、という私の中で定番のモノがあるのだが、この香水をつけている人にまだ出会ったことがない。不思議なものだ。

星の数ほど香水は存在するけれど、やはり時代に影響を与えた「香り」というのはある。

シャネル、と言えば「No.5」、というくらい定着している香水が誕生したのは1921年。シャネルは当時38歳。ディミートリー大公と呼ばれるロシアの亡命貴族と付き合っていた。彼は皇帝アレクサンドル2世の孫であり、皇帝ニコライ2世(ロシア最後の皇帝)のいとこだった。シャネルは恋人からニコライ2世の調香師として働いていたエルネスト・ボーを紹介してもらい、革新的な「香水」を作らせた。

ディミートリー大公

それは80種類以上の花の香りに高価なジャスミン、ジャコウなどを使い、さらにその香りを持続させるために合成香料アルデヒドを使用したものだった。

これまでの香水は天然のものだけを使用し、今では手に入れる事が不可能な(ワシントン条約により)動物の骨や角などから採取した香料を使用するなど、およそ量産できるようなものではなく、本当に上流階級の一部の人たちだけが買えるような高級品だった。

そこにアルコールから水素を取り除いた化学薬品を大量に投入するという前代未聞の処方を用いたのだった。

アルデヒドはそれ自体では悪臭と言えるような代物だったが、奇跡的に、花の香りに混ぜることでその花の香りを引き立たせ、持続させることができた。

これによって、安価で、香りを長持ちさせることができ、しかも今までにない個性的な香りが誕生したのである。

香水の歴史の中では「シャネルNo.5の前と後」と言われるくらい、革新的な出来事だった。

100年前に調合された香りが、今も同じ処方で作られているかどうかは疑問であるが、結論からいうと、「No.5」はとても苦手な匂いだ。オードパルファンだろうが、オーデコロンだろうが、着ければたちまちむせるような女性っぽい重たさに包まれる。それも古いおしろいを塗りたくったような、厚化粧の女。うんざりするようなわざとらしさと狡猾さ。私が避けてきたあらゆる女性の負の部分を体現しているような香りだ。

これは、きっとシャネルのマーケティング戦略が、とんでもなく優れていることの象徴なのだろう。かつてマリリン・モンローが愛用し、アンディ・ウォーホルが描き、今なおシンプルで完璧なデザインの香水瓶がもたらす男性的なイメージ。中身の香水はその真逆といっても過言ではない。しかしそれだから、売れ続けているのかもしれない。全てはただのイメージなのだ。

かように、匂いは、イメージと直結し、それでいてかけ離れた存在でもある。香水が女性と切っても切り離せない関係なのは、そのような背反性にあるのかもしれない。

いつの日か自分だけの香りを作って身にまとってみたいものだ。

文責:矢向由樹子

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