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神戸港艀物語 - grunge house records

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神戸港艀物語

文:ushiro

艀という言葉をご存じだろうか。

舟を浮かべると書いて”ハシケ”と読む。船でありながら機関は搭載しておらず、曳船(ひきぶね)と呼ばれる船に曳かれて荷物を運ぶ。これらの所作を曳航(えいこう)と呼ぶ。

文献によると江戸時代から存在するらしく、当時は人を乗せ客船として機能していたそうだ。

戦後は輸入や輸出に使われるようになった。一例を挙げると瀬戸内海の工場へ行き荷物を積み、神戸港へ帰り外航船へそれを移し替えて輸出をしている。

構造を説明すると縦に長い外観をしており真ん中には荷ノ間と呼ばれる、荷物を積載するための窪みがある。それは全体の約7割を占めており、残りの2割に居住区があり1割は通路などになっている。

荷ノ間には雨が降れば水が貯まるので板を乗せ、その上からシートを敷いて雨除けにしていた。

その後ズボラな船頭がテントに目をつけた。荷ノ間へ三角形にワイヤーを通し、そこへテントを吊るして雨水を凌ぐようになった。テントの端は甲板上に索で固定しているので雨垂れは海に流れる仕組みだ。

荷役になるとテントを端に寄せ集め固定し、ワイヤーを緩めてブラジャーの紐を肩から外すように荷ノ間の外へズラす。そうする事により荷揚げ(玉掛け)がスムーズに行えるわけだ。

現代の艀

前述の通り艀には居住区があるため人が生活をしていた。戦後の神戸港には瀬戸内海の各港から家族が移住してきて艀で暮らす姿が多数見られた。艀の住民は初め夫婦で働きながら暮らしており、子が生まれると子育てをしながら仕事をするようになった。その子供が大きくなると彼らは学校へ通うようになる。

港の朝は早く、日の出と共に沖へ向かう艀から子は早々に下船する。

小学校が終わり下校すると自宅である艀は沖荷役の最中だったりした。

また港湾作業には半夜やオールナイトと呼ばれる残業があり、夕暮れになっても港で待ち惚けになる子供の姿が多数見られた。

それを見兼ねた公共団体が水上児童寮という施設を山の上に儲け、学生はそこへ住み込んで暮らすようになった。

それでも子供らは家族が恋しい。彼らは週末になると港へ向かい家族の艀を探すが、運が悪ければそれは沖へ荷役に出ており家族と会う事ができない。

また艀は住処であり子供たちの遊び場でもある。艀の上で走り回る子らの中にはしばしば足を踏み外し海中へ転落する者がいた。運よく救命された者もいたが、命を奪われる者も少なくはなかった。彼らの供養にと神戸港の波止場には赤い掛け物を身につけた地蔵が安置されている。

そういった背景を考慮して神戸港湾福利厚生協会は1968年に住宅を設置した。

神戸市国産1~3号上屋倉庫の上に3階建の住宅を建てた。

下2階が倉庫になっており上3階が住宅という合計5階建の建造物だ。

建設当時は艀溜となっていた港に道路を跨いで面していたが、今現在は埋立により港との繋がりは薄れている。

入居は艀業組合所属会社の従業員に限られていたが、今では倉庫関連会社の従業員も住まう事ができるようになった。

住宅は公園を挟んでコの字にデザインされており、建設当時は滑り台もあり子供たちの遊び場になっていたが、今は子供の数も減り遊具は撤去され始めている。

神戸港を見渡せば目に入る人工島ポートアイランドは1981年に街開きが行われた。その後六甲アイランドも埋立られた。それまでの神戸港は沖を見渡せば全てが海だった。

貿易を担う外航船(以降本船と呼ぶ)は沖で錨泊し、それを囲むように何隻もの艀が本船の周りを囲んで荷役を行なっていた。当時はクレーンの技術が乏しく、少量の荷物なら人力で運んでいた。それらの人材は人夫と呼ばれ、彼らが大人数必要になる。

その人夫を斡旋する業者を乙種仲介業者(略:乙仲)と呼んだ。夜明け頃になると街中で人夫を探す乙仲が多数見られ、この業者の事務所が複数存在する場所としてそこらは乙中通りと呼ばれるようになった。

艀上でくつろぐ労働者

戦後は艀を伝って対岸まで渡れる程にそれが多数存在したが、貨物のコンテナ化により艀の数は減った。

今では艀で暮らす者もほとんど居らず、乗組員の呼び方も船頭から作業員へと変換している。

余談だが神戸の学校は公私立を問わず9割近くが下駄箱を持たない。これは戦後の人口増加が起因だとされている。下駄箱を持たない代わりに神戸の学生は『上履き入れ』と呼ばれる巾着袋を持っている。また教室には廃油が塗られ、埃が立ちにくいよう工夫されている。

これら人口増加の一端を艀も担っていると思われる。

以上が私の知る艀及び神戸港の戦後史である。港湾関係は決して綺麗とは云えず、危険も多く血の気も荒かった。今では古着屋とタワーマンションが並ぶ乙仲通りだが当時は治安が悪かった。

市はそれらの過去を隠そうとしているように映るのだが、私はこういった歴史にノスタルジーを感じて好きだ。

参考文献 司馬遼太郎 龍馬が行く(文藝春秋; 新装版 1998/9/10)

参考資料 中日映画社[昭和39年7月] 中日ニュース No.546_2「港の子ら」https://youtu.be/t9h7VUNz-H0

国産波止場共同住宅におけるコミュニティーと空間構成

https://www.kobe-du.ac.jp/env/kawakita/gakkai/2002/kokusan1.pdf

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