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Miles Davis : birth of the cool
2019年製作/115分/スタンリー・ネルソン
2020年7月、アメリカの老舗衣料品販売店Brooks Brothersは米連邦破産法第11条の適用を申請し経営破綻した。新型コロナウイルスの感染流行を受け、長期に渡る店舗休業が響いてのことだった。古き良きアメリカを象徴するようなブランドの経営破綻のニュースは少なからず世界に衝撃を与えることとなった。
Brooks Brothersと言えば、ジョン・F・ケネディ大統領を筆頭にクラーク・ゲーブルやケーリー・グラントといったハリウッドの俳優たちがこぞって着用し、世界中の人々を虜にした。その歴史は200年という長きに渡るもので、まさにアメリカと共に歩んできたようなものだ。それゆえ、エスタブリッシュメントと呼ばれる人たちからアンディ・ウォーホールのようなポップ・アーティストまで、熱心な愛好者たちがいた。そしてその熱き信望者の一人がマイルス・デイヴィスであった。
1950年代のマイルスはピンストライプのダブルのスーツを着こなしたかと思えば、ボタンダウンシャツに絹のスカーフを合わせ、オーダーメイドのツイードのスーツに身を包むなど、その着こなしは完璧であった。
映画「マイルス・デイヴィス:クールの誕生」では、当時を知るミュージシャンたちがいかにマイルスに憧れ、マイルスになろうとしたか、ということがインタビューで語られる。「彼は黒人のイメージをすっかり変えてしまった。マイルスはマイルスであり、何者でもなかった」と。
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マイルス・デイヴィスは1926年にイリノイ州で歯科医を営む父と音楽教師の母の元に生まれた。その後セントルイスに移り、トランペットを始め、ニューヨークのジュリアード音楽院で学んだ。家は裕福であったが、父親は封建的な思想の持主で、しばしば夫婦喧嘩のすえ母親を殴った。
音楽院在学中から52nd Streetでトランペットを吹き、ビ・バップ全盛期のチャーリー・パーカーとディジー・ガレスピーのバンドに参加した。バードとディジーとの共演は相当の緊張(当たり前だが)と体力的消耗を強いられ、一度は逃げ出したこともあった。しかし徐々にその実力が認められるようになると、ビッグバンドの指揮を任されるようになったり、レコーディングの機会を与えられるようになった。
そして1949年、1度目の転期が訪れる。
タッド・ダメロン率いるバンドの海外公演で初めてパリを訪れた彼は、アメリカとは違い自分たちが人として真っ当な評価を受けることに驚かされた。それはアメリカではあり得ない事だった。
彼はフランスのシャンソン歌手、ジュリエット・グレコと恋に落ち、彼女を介してパリの知識人、サルトルやピカソといった芸術家たちと交流した。
帰国後、彼はアメリカにおいて黒人がいかに悲惨な境遇に置かれているかという事実に打ちのめされ、ほとんど鬱状態となり、ヘロイン中毒になった。彼は52nd Streetでライヴ演奏する傍ら、朝から晩までヘロインを打ちまくった。金は無くなり、周りの人間に片っ端から金をせびり、わずか1¢でも貸してくれと懇願する始末であった。
ある日そのような惨状を見かねた父親が、舞台で演奏中のマイルスを引きずり降ろしてセントルイスへ連れて帰り、厳しい療養生活の末なんとか立ち直らせた。
1950年代のジャズ・ミュージシャンの間で麻薬中毒であることは、18世紀のウィーンの音楽家・芸術家たちが梅毒患者であったことと同等にポピュラーなことだった。チャーリー・パーカーもビリー・ホリデイもチェット・ベイカーもみんなジャンキーだった。そしてそれゆえ才能があるにも関わらず自らを痛めつけて、死んで行くことになった。マイルスはそれを一度は乗り越えたものの、麻薬は(ヘロインであれコカインであれ)彼の65年という生涯の間中ずっと肉体を蝕み続け、アーティストとしてまだ寿命があったにも関わらず、志半ばで息絶える事になった。
1955年3月にチャーリー・パーカーが34歳で亡くなり、4月にはカーネギー・ホールでビリー・ホリデイやセロニアス・モンクが集まり、追悼コンサートが行われた。若くして失われたビッグ・スターの死は一つの時代の終わりを告げているようだった。
同年8月、ニューポート・ジャズ・フェスティバルの開催を聞きつけたマイルスは、自分こそがこのフェスティバルに出るべき人物だと確信し、出演を願い出た。会場にはコロンビア・レコードの重役が並び、舞台にマイルスが完璧な着こなしで現れ、ミュートを装着したトランペットをマイクにピタリとつけて「Round Midnight」を演奏し始めた時、そこにいたすべての観客は魅了され、「新しい時代」の訪れを発見することとなった。
クールの誕生である。
コロンビア・レコードが契約に際してつけた条件は、「ドラッグに手を出さないこと、自分のバンドを持つこと」だった。
かくしてマイルス・デイヴィス・セクステットが誕生することになった。
1959年にリリースされた「Kind of Blue」は、一部の曲を除いてtp :マイルス・デイヴィス、ts :ジョン・コルトレーン、as :キャノンボール・アダレイ、p :ビル・エヴァンス、b :ポール・チェンバース、ds :ジミー・コブによって演奏された。マイルスは手ぶらでスタジオにやってきて、簡単な5小節だけのスケッチを見せて言った。「さあ、スウィングするんだ」
ポール・チェンバースの水面に波紋を起こすような深いベースから始まる1曲目「So What」はこうして完全に自然発生的なインタープレイによって作り出された。そんな馬鹿な、である。しかしマイルスには確信があった。才能のあるミュージシャンが集まれば、必ずそれが成し遂げられる、と。
この作品はジャズだけでなく、その後の音楽全般に影響を与えた「モード奏法」を生み出した。グルーヴを大切にし、自由な即興演奏を生み出した。
これまでのジャズは、歌詞があって、その歌詞を自分のものにして、それをアドリブで表現する、ルイ・アームストロングやレスター・ヤングのようなスタイル、そしてリズム&ブルースのリズムに重きを置き、個人の解釈によって曲を再構築していくビ・バップのようなスタイルが主流だった。
60年代を目前にマイルスは時代を変えた。
マイルス以前・以後と言われるように。
その後もマイルスは時代の波を捉え、スライ・ストーンのスタイルを見てビッグ・バンドを組み、エレクトロとパーカッション、即興で組み立てられた「Bitches Brew」生み出し、70年代に入るとハードなジャズ・ファンク「On The Corner」を発表するなど、一つの場所に居続けることなく、今、この瞬間のマイルス・デイヴィスを追求し続けた。
私はどの時代のマイルスも好きだが、やはり、50年代から60年代にかけて、時代に楔を打ち付けた頃の彼が好きだ。
初めて買ったアルバム「死刑台のエレベーター」のサントラを聴いた時の衝撃というものは忘れられない。1957年にルイ・マル監督の要請を受けて作られ、全て映像を見ながらマイルスが即興で作り上げたという。この映画はサントラがまず有名となり、その後映画の大ヒットにつながったということだが、映画のストーリーと同様、終始緊迫した暗いモーダルな演奏が収録されている。
初めてこのアルバムを聴いた時、何かが私の中で変わるのを感じたけれど、それがなんであるのかは分からなかった。まるで映画の中でジャンヌ・モローがパリの街をさまよい歩くように、私もまた答えを求めて繰り返し繰り返しこのアルバムを聴いた。
不条理・・・それが人生だとしたら・・・?
So what?
マイルスがしわがれ声で語りかけてきた。
文責:矢向由樹子
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