Warning: Undefined array key "post_password" in /home/grungehouse0/grungehouserecords.com/public_html/wp/wp-content/themes/ghr/functions.php on line 45
ラスト・タンゴ・イン・パリ - grunge house records

Language

EN ZH
“ロゴ”
What is our struggle?

BLOG

ラスト・タンゴ・イン・パリ

1972年・伊 / 監督:ベルナルド・ベルトルッチ

☆☆☆

あらすじ

パリのアパルトマンの空室で出会った見知らぬ中年男(マーロン・ブランド)と若い女ジャンヌ(マリア・シュナイダー)。二人は名前を名乗らずにただの男と女としてその日から愛し合うようになる。やがてジャンヌは恋人と結婚が決まり、男に別れを告げる。男はジャンヌを失ったことを知ると突然身の上話を語り出し、これまでの関係を続けるように懇願する。哀れな中年男の現実を見せつけられたジャンヌはパリの街を彼から逃れるために走り抜ける・・・

☆☆☆

 「芸術とは、死とセックスとダンスを表現することに他ならない」と言ったのは誰だったか。

 もしそれが真実なら、映画『ラスト・タンゴ・イン・パリ』はそれらの要素をふんだんに盛り込んだ芸術作品ということになる。

 しかし話はそう簡単ではなくて、1972年公開当時は芸術か猥褻か、と随分論争になったそうだ。最大の問題は劇中のアナル・セックス・シーンで、イタリアでは上映禁止となった。今となっては大した問題ではないが​、当時はセンセーショナルだったようだ。

それから時を経て、2025年9月に『タンゴの後で』という映画が公開された。

 これは『ラスト・タンゴ・イン・パリ』の舞台裏、とりわけ、この性描写についてヒロインのマリア・シュナイダーが内容について説明されることなく、ほぼレイプのようなシチュエーションで行われたことが描かれていた。監督のベルトリッチと主演のマーロン・ブランドが二人で示し合わせて行ったことで、マリア・シュナイダーはそのことでひどく自尊心を傷つけられ、その後薬物中毒やアルコール中毒に陥ってしまう。重要なことは、撮影当時マリア・シュナイダーは19歳の未成年だったことだ。いくら70年代とはいえ、彼女を守る手段をなにも講じなかったのは酷いと言わざるを得ない。

 今回、『タンゴの後で』を見てから、しばらくぶりに『ラスト・タンゴ・イン・パリ』を見直したのだけれど、徹頭徹尾男性の目線で描かれた映画だなぁ、と思わされた。

 老いる事​への恐怖、若い女への憧れ、匿名性の持つ支配と暴力。最期は哀れな道化師となり​、​死によって救われる…

 この映画の前年、ルキノ・ヴィスコンティが『ヴェニスに死す』で描いた芸術と狂気と性的倒錯に似ていなくもないけれど、 ​ヴィスコンティが描く様式美やヒューマニズムは、庶民にはいささか共感しにくい。それに比べると、『ラスト・タンゴ・イン・パリ』はより通俗的で、ポップな世界だ。

 今回、時を経て私が注目したのはマーロン・ブランドという怪物だった。

 もしあの役をジャン=ルイ・トランティニャンが演じていたら、その知性を無駄に使わないで!、と目を覆っていたかもしれない。ところがマーロン・ブランドは、もはや演技なのか地なのか分からない、低俗さと狂気で見ているこちらが釘付けになってしまうのだ。薄くなった頭髪、くたびれた背中、何を言っているか分からないセリフ回し。あの昔の精悍なマーロン・ブランドの姿はどこにもなく、若く美しいマリア・シュナイダーが際立つばかり。それでも、このギラギラした目をした老犬のようなマーロン・ブランドの全てがカッコよく思えてしまった。

 かつてジェームズ・ディーンがまだ端役だった頃、マーロン・ブランドに憧れて、全てを模倣した、というのはあながち嘘ではないのかもしれないと思った。カリスマ性というのはそういうことなのだろう。

☆☆☆

 この映画を好きか嫌いか、と問われれば、迷わず「好き」と答える。マリア・シュナイダーのその後の事は気の毒だし、ベルトリッチはエゴイストだし、マーロン・ブランドは怪物だけれど、何十年の時を経て、再びこの作品を見直した時、ある感情が湧き起こった。この感覚はなんだろう?なにかに酷く似ていると思った。

 私は一枚の絵を思い出していた。

 ロイ・リキテン​スタインの『​ヘアリボンの少女』だ。

​ 昔、働き始めて間もない頃、毎日通勤で梅田の茶屋町から豊崎町に向かう横断歩道の先に画廊のような、オフィスのような店舗があって、そこのショーウィンドウにこの絵が飾られていた。​ブロンドの少女が何かに怯えるような表情でこちらを見つめるあの絵だ。​彼女は何に怯えていたのだろう?ある日、その絵に近寄って、しばらく彼女を見つめていた。光と影が交錯し、やがて彼女が怯えているのではなくて、青い瞳の奥で官能の火が燃え、誰かを待っているのだと思った。

​ 少女がその後どうなったのかは分からない。少女は今も歳を取らずに誰かを待っているのだろう。私が彼女の瞳の奥に見たものは、かつての私自身なのかもしれない。

文:kikiko

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA