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「ギタリストという蛮族がいる」

『僕のスウィング』という映画がある。フランスの片田舎のある村に住む祖母の家で一夏を過ごすことになった白人の少年と「スウィング」という名前のロマの少女との恋を描いた作品だ。少年が祖母の家の近くにあるロマの集落で自分のウォークマンを少女の持っているギターと交換する場面ではじまるこの物語の主軸は、マヌーシュ・ジャズとギターにある。少年はその村でトレーラーに暮らす文盲のギタリストに生活保護申請のための書類を代筆してやり、それと引き換えに彼から演奏を学ぶことになる。少年はギターを習うことを口実として集落に出入りし、川と森林に彩られた豊かな自然の中で少女とともにかけがえのない時間を過ごす。

 「三本指のジャズマン」ことジャンゴ・ラインハルトで有名なマヌーシュ・ジャズは、近代アメリカの周縁で生まれたジャズがレコードやラジオを通じて国際的に流通し、フランスの周縁にローカライズされた音楽だ。

しかしこのマヌーシュ・ジャズに限らず、ある地域の周縁に生じた大衆音楽が世界規模での波及を経て再び異郷の周縁に根付くという一連の流れは、ボサ・ノヴァやスカ、ロックンロールなど二十世紀のあらゆるポピュラー音楽の諸ジャンルに共通するグローカルな動きであった。そのようにして新しい音楽や新しいリズムが異郷に形成されるとき、ギターはつねに重要な役割を果たしてきた。

 どこへでも持ち運ぶことができ、どんな場所でも演奏ができるというギターの優れた移動性は、その担い手となった音楽家たちに様々な舞台やビジネス・チャンスを用意することにつながったし、また新しい音楽形式を生み出し発展させる原動力ともなった。ロバート・ジョンソンがひとり十字路に立ち悪魔に魂を売り払ったり、あるいはジョアン・ジルベルトがバスルームに引きこもってボサ・ノヴァのリズムを発見したりといった逸話はこうしたギターの移動性の賜物である。あるいは小林旭主演による同名映画のテーマ曲「ギターを持った渡り鳥」(1959年)を思い出すまでもなく「彷徨のギター弾き」という表象がいつの時代にも人々の心をとらえて離さないのは、彼らギタリストが場所の呪縛を逃れつづける逸脱者としての魅力を持っていたからである。

ピアニストがピアノのある場所に束縛されるのとは対照的に、ギタリストにはギターさえあれば、そこが街頭であろうと酒場であろうとバスルームであろうと好きに演奏することができた。もっと根源的にいえば、それはまずもって電気をすら必要としなかった。

 ギターは(モノにこだわらないのであれば)経済性にも優れている。ギタリストはたとえ、いつか麻薬やセックスに入れ込むあまり楽器を売り払ってしまったとしても、襤褸(ぼろ)のギターならどんな片田舎でもごく安価に手に入れることができると安心している。たとえそれがチューニングの合わない代物であったとしても、声のピッチや指板の押さえ具合を工夫して人間が楽器にチューニングを合わせればよいのだし、そもそもひとりで弾く分には大した問題ではない。それを元手に街頭での演奏やセッションで金を稼ぎ、そのうちまともなギターを買い直そう。管楽器などと違い、自分にしか聞こえないほどの小さな音で弾くなら壁の薄い安宿で練習しても苦情を言われることはないだろう。そうだ、いっそ夜中の墓地に行けば誰にも邪魔はされまい…などと考えている。たとえ初心者であっても、『僕のスウィング』の場合と同様、ギターを担いで道を歩いていればなぜだか街に一人はいる親切なギターおじさんに出くわし、頼みもしないのに手解きをしてくれるのだ。

 どこからともなく現れ、その土地の音楽を拾い上げ、いつとなく消えてゆく。いなくなったかと思っていたら、だれにも気づかれることなく帰ってくる、どこの馬の骨かも知れない愚か者。夢幻のように遠くもあり、また同時に誰よりも親密な、無法者、あるいは引きこもり——そのようなギタリストの表象は、そもそもギターという楽器の持つ移動性や経済性と無縁ではない。

 こうした「蛮族」のひとりに「バタやん」こと田端義夫がいる。

誰も見たことのないような「ナショナル」というメーカーの小振りな電気ギターを抱えたその男の戦後のスタンスは、それまでの歌謡曲とはやや次元が異なっていた。彼は戦中から大衆的な人気を博し、それ故に多くの国策歌謡にも手を貸した歌手でもあったわけだが、戦後に誰よりもはやくかつての「敵性音楽」である洋楽の復帰に目をつけ、ギターと歌のみの演奏によって戦後日本で初めて「ブギ」を吹き込んだというとんだトリック・スターである。

 敗戦からわずか二年の1947年に田端が発表した「街の伊達男(ズンドコ節)」は、その詩にせよスタイルにせよ、日本最初の本格的なダウンホーム・ブルースであった。彼は戦後、地方巡業のために四国へと渡る連絡船で耳にした、闇屋の男たちの歌う「ズンドコ節」の替え歌に商機を見出し、誰よりも早くそれを売り出すべくギタリストの長井隆也と二人でこの曲を録音した。それは「東京ブギウギ」が発売される一年前のことであった。田端は次のように述懐する。

[この曲は絶対いけると思ったので、その船の中で、ギターで演奏するアレンジ も考えました。あれね、ブギウギですよ。まだブギウギがはやる前でしたが、当時のわたしのバンドマスターの堀田さんというピアニストが、舞台の合間にブギウギを弾いていたのを覚えてたんです。その前に、黒人の女の人がピアノでブギウギを引いている映像も何かで見て、びっくりしましたね。左手がブンボブンボブンボブンボ・チャンチャン、でしょ。それが頭にあった。この曲を普通の歌謡曲みたいにブンチャッチャ、ブンチャッチャとやってもアホみたいなもんやから。うん。そうや、二人でブギウギでやってみようと。(田端義夫)*]

 ギターを抱えて流浪する田端が歌うこの曲は、ファシズムからデモクラシーへの急転換と貧困とで混迷する戦後間もない日本の大衆にどのように響いたであろうか。作詞者は別人だが、彼が「やくざ渡世もあの娘のために、さらばおさらばさようなら」と歌うとき、それはあたかも戦争協力に奔走したかつての自分や大衆を過去の呪縛から解放するような清々しさを感じさせる。言葉の受け止め方は多様であったにしても、その時代にその場所で鳴らされたのがギターによる「ブギ」のリズムであったことの意味することとは一体何だろうか。ジャズがグローカルな土着化を経て、異郷の地に再び周縁化された経緯を思い出してほしい。田端の場合はそれが「ブギ」であり、戦後間もない時期の巡業旅行の最中に耳にした「ズンドコ節」であったのだ。

https://youtu.be/CpCxH84peC8

*田端義夫「戦後ニッポンのポピュラー音楽」、『レコード・コレクターズ』1998年6月号。引用は北中正和『ギターは日本の歌をどう変えたか——ギターのポピュラー音楽史』から。

文責:UG Noodle

https://www.wenod.com/?pid=148585427

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