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猫と庄造と二人のおんな - grunge house records

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BOOK

猫と庄造と二人のおんな

ー谷崎潤一郎ー

あらすじ

 蘆屋(あしや)で荒物屋を営む冴えない男庄造には、リリーという独身時代から飼っている雌猫がいた。ある日庄造の元に前妻品子から手紙が来て、リリーを自分に譲ってほしいという。のらりくらりと返事を先延ばしにしていたものの、普段から自分より猫を大事にすることが気に食わないでいた妻、福子に迫られて庄造は泣く泣くリリーを手放した。そこにはもちろん品子の思惑が隠されていて、いずれ庄造が猫恋しさに品子の家を訪れるに違いないと踏んでのことだった。果たして、妻に厳しく止められていたにも関わらず、庄造は猫に会うために品子の家を訪れたのであるが、そこで見たものは・・・

☆☆☆

 ダメ男には関西弁が良く似合う。

関西の男がダメと言っているのではない。ダメ男には可愛げが必要であり、関西弁にはどこか人の心を緩ませるものがあるのだ。

標準語で言われるとカチンとくるような事も、関西弁やその他の方言だと許せてしまう、なんてことも多々ある。特に愛情のこもった「あほやなぁ」という言葉には、女心をくすぐる親密さと男性の魅力が溢れていると思われるのであるが、「バカか」と言われると心底落ち込んでしまうのはただの被害妄想か。

 この小説の肝はだから関西弁である。ここは言語学者ではないので、正確な論拠はないのだけれども、この小説で使われているのはどちらかというと大阪弁に属すると思う。舞台は阪神間、芦屋から六甲あたりだから、神戸の言葉かと思いきや、大阪弁であった。そこの違いによって小説の印象がひどく変わるわけではないので、どうでも良いことなのだが。

 作者の谷崎潤一郎は、関東大震災(1923年)後、関西に移り住み、以後も旺盛に執筆活動を続けるのであるが、この移住後の作品がとにかく面白くて、すっかり谷崎ファンになってしまった。

 この「猫と庄造とふたりのおんな」は取り立てて有名ではないけれど、谷崎の冷徹な人間観察が光る良作だと思う。

 猫に嫉妬する愚かな女たちと、猫を溺愛する愚かな男、誰にも隷属しない猫、というヒエラルキーを描いたもののようであるが、そこまで「隷属」というキーワードにこだわる必要はないと思う。「痴人の愛」→男女関係→隷属→谷崎、みたいな図式にどうしてもはめたがる論調が多いけれど、「猫と庄造・・・」で描かれているのは、ダメ男にも流儀があり、その流儀を守れないやつはダメ男になる資格もない、という谷崎特有の美学が通底にあるのではないだろうか。

 隷属、奴隷というとすぐにSM論などを持ち出す者がいるけれども、S・サディストとして振る舞うためには規律と奉仕の精神がなければ決して許されない行為なのであり、巷のAVかぶれの無知蒙昧な人間が単に暴力的な行為を行ったり、女性に貢がせたりするのがサディストではないのだ。

 それが谷崎の根底にある美学であり、松子夫人に徹底的に尽くす姿の裏には自分に課した規律があり、それを守ることに「美」を感じていたのだ。

 翻ってこの小説の主人公の男はどうだろうか。

初めは良かった。ただ猫を可愛がっているだけのアホな亭主だった。ところが猫を取り上げられてからというもの、むくむくと自我が芽生えてきて、女どもに小突かれ、思いのままにされることにだんだん腹を立て始める。そうするともうダメ男ではなくて、ただのプライドの塊と化してしまうのである。

ラストで品子に見つかるまいと裸足で飛び出す庄造の姿は、滑稽であり、哀れである。

ダメ男の美学とは、徹底して自我を持たないことなのだ。

文;Y



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